「長」は丁文の反。下の「長人」も同じ。「幹」は古旦の反。この篇は彖伝・象伝の意を重ねて述べ、乾坤二卦の奥蘊を尽くしたものであり、他の卦の説明もこれによって類推することができる。元とは物を生ずる始めであり、天地の徳においてこれに先立つものはない。ゆえに時にあっては春となり、人にあっては仁となり、あらゆる善の長である。亨とは物を生ずる通達であり、物がここに至れば美しく整わぬものはない。ゆえに時にあっては夏となり、人にあっては礼となり、あらゆる美の集いである。利とは物を生ずる成遂であり、物がおのおの宜しきを得て互いに妨げ合わない。ゆえに時にあっては秋となり、人にあっては義となり、その分限の調和を得る。貞とは物を生ずる成就であり、実理が具備して至る所でおのおの満ち足りている。ゆえに時にあっては冬となり、人にあっては智となり、あらゆる事の幹となる。幹とは木の本幹であり、枝葉がこれに依って立つところのものである。
仁を本体とすれば、一物として愛の中にないものはない。ゆえに人に長たるに足る。その集うところを美しくすれば礼に合わないものはなく、物におのおのその利を得させれば義において和ならざるはない。貞固とは正しさの所在を知ってこれを固く守ることであり、いわゆる知って去らぬことである。ゆえに事の幹となるに足るのである。
君子の至健でなければこれを行うことはできない。ゆえに「乾は元亨利貞」という。この第一節は彖伝の意を重ねて述べたものであり、『春秋左氏伝』に載せる穆姜の言葉と異ならない。思うに古くからすでにこの言葉があり、穆姜がこれを称え、夫子もまた取るところがあったのだろう。ゆえに下文で別に「子曰く」と挙げて孔子の辞であることを明示したのは、伝を記した者がこの章の古語たることを明らかにしたかったからである。
「楽」は音は洛、苦学の反。龍徳とは聖人の徳である。下に在るゆえに隠れる。易とはその守るところを変えることをいう。およそ乾の六爻の文言はみな聖人によってこれを明らかにしており、隠顕はあるが浅深はない。「行」は下孟の反。「邪」は以嗟の反。正中とは潜でもなくまだ躍り上がってもいない時である。日頃の言葉も信実であり、日頃の行いも慎み深いのは、盛徳の極みである。邪を閑ぎその誠を存し、斁くることなきもまた保つの意である。「君徳なり」とは大人が九二たるゆえんを解釈したものである。
「幾」は音は機。忠信が心において主となるのは、一念として不誠なきことである。修辞が事において現れるのは、一言として不実なきことである。忠信の心があるといえども、言葉を修めて誠を立てなければ、これに安住することはできない。「至るを知りてこれに至る」とは徳を進める事であり、「終るを知りてこれを終る」とは業を居くする事である。終日乾乾して夕べにもなお惕若とする所以は、このためである。上るもよく下るもよく、驕らず憂えないのは、いわゆる「咎なき」ことである。
九四に「或いは躍りて淵に在り、咎なし」とあるのは、何の謂いか。子曰く、上下定まりなきも邪をなすにあらず、進退恒なきも群を離るるにあらず。君子は徳を進め業を修め、時に及ばんと欲す。ゆえに咎なし。「離」は去声。内卦は徳と学によって言い、外卦は時と位によって言う。徳を進め業を修めることは九三で備わっており、ここでは時に及んで進まんとするのである。
九五に「飛龍天に在り、大人を見るに利ろし」とあるのは、何の謂いか。子曰く、同声相応じ、同気相求む。水は湿てるに流れ、火は燥けるに就き、雲は龍に従い、風は虎に従う。聖人作りて万物睹る。天に本づく者は上を親しみ、地に本づく者は下を親しむ。則ち各々其の類に従うなり。「応」は去声。「作」は起きることである。「物」は人のごときものである。「睹」は利見の意を解釈したものである。天に本づく者とは動物をいい、地に本づく者とは植物をいう。物はおのおのその類に従う。聖人は人類の首である。ゆえに上に興起すれば、人々はみなこれを仰ぎ見るのである。
上九に「亢龍悔いあり」とあるのは、何の謂いか。子曰く、貴くして位なく、高くして民なく、賢人在下位にして輔なし。是を以て動けば悔いあるなり。賢人在下位とは九五以下をいう。輔なしとは上九が高きに過ぎ志が満ちているため、これを輔佐しに来ないことである。この第二節は象伝の意を重ねて述べている。「潜龍用うるなかれ」とは下なればなり。「見龍田に在り」とは時舎まるなり。「舎」は音は捨。いまだ時に用いられないことをいう。「終日乾乾」とは事を生ずるなり。「或いは躍りて淵に在り」とは自ら試みるなり。にわかに行うことなく、ひとまずその可否を試みるのである。
「飛龍天に在り」とは上治なり。「治」は平声。上に居て下を治めることである。「亢龍悔いあり」とは窮まるの災いなり。「乾元用九」とは天下治まるなり。「治」は去声。乾元用九は他卦と異なることを示している。君道が剛にしてよく柔なれば、天下は治まらざるはない。この第三節は再び前の意を重ねて述べている。「潜龍用うるなかれ」とは陽気潜蔵すればなり。「見龍田に在り」とは天下文明なり。上位に在らずといえども、天下はすでにその感化を被っている。「終日乾乾」とは時と偕に行うなり。時の当然である。「或いは躍りて淵に在り」とは乾道すなわち革まるなり。
下を離れて上へと向かう変革の時である。「飛龍天に在り」とはすなわち天徳に位するなり。天徳とは天位のことである。唯だこの徳があってこそこの位に居るのが宜しいので、その名をつけている。「亢龍悔いあり」とは時と偕に極まるなり。「乾元用九」とはすなわち天の則を見るなり。剛にしてよく柔なるは天の法である。この第四節はまた前の意を重ねて述べている。「乾元」とは始原にして亨通するものである。始まれば必ず亨通する、理の勢いとして然るべきことである。「利貞」とは性情である。収斂し帰蔵して、はじめて性情の実が見える。
乾は始めて美利をもって天下を利す、利するところを言わず、大なる哉。始とは元にして亨である。天下を利するとは利である。利するところを言わないとは貞である。あるいは坤は牝馬の利と言っており、利するところを言っている。大なる哉乾や、剛健中正にして純粋の精なり。
剛は体をもって言い、健は用を兼ねて言う。中とはその行いに過不及がないことであり、正とはその立ち位置が偏らないことである。四者は乾の徳である。純とは陰柔に雑わらないことであり、粋とは邪悪に雑わらないことである。剛健中正の極みであり、精とはさらに純粋の至極である。あるいは乾は剛にして柔がないので中正を言うべきではないと疑う者がいるが、それは正しくない。天地の間はもともと一気の流行であり、ただ動静があるだけである。その流行の統体をもって言えば、ただこれを乾と呼んで包まないところはない。その動静によってこれを分かつことで、はじめて陰陽・剛柔の別が生ずるのである。
六爻揮きて傍ら情に通ずるなり。傍通とは曲を尽くすというような意味である。時に六龍に乗じて以て天を御するなり。雲行ぎ雨施して天下平らかなり。聖人が時に六龍に乗じて天を御すれば、天の雲が行き雨が施されて天下が平らかになるようなものであることを言っている。この第五節は重ねて首章の意を述べている。君子は徳を成すをもって行いと為し、日々に示すべき行いなり。潜の言たるや、隠れていまだ見われず、行いていまだ成らず、是を以て君子用いざるなり。
「行」はともに去声。「未見」の見の音は現。成徳とはすでに成就した徳である。初九はもとより徳を成しているが、ただその行いがまだ現れていないだけである。君子は学びてこれを集め、問いてこれを弁じ、寛をもってこれに居り、仁をもってこれを行う。易に曰く「見龍田に在り、大人を見るに利ろし」とは君徳なり。これら四者によって大人の徳を成すのである。重ねて君徳と言って、九二が大人の徳であることを深く明らかにしている。九三は剛を重ねて中ならず、上は天に在らず、下は田に在らず。ゆえに乾乾とし、その時に因りて惕るれば、危うしといえども咎なからん。
「重」は平声。下も同じ。剛を重ねるとは陽爻・陽位をいう。九四は剛を重ねて中ならず、上は天に在らず、下は田に在らず、中は人に在らず。ゆえにこれに或う。これに或うとはこれを疑うなり。ゆえに咎なし。九四は剛を重ねるのではない。「重」の字はおそらく衍字である。「人に在り」とは九三を指す。「或う」とは時に随って未定なことである。夫れ大人とは、天地とその徳を合わせ、日月とその明を合わせ、四時とその序を合わせ、鬼神とその吉凶を合わす。天に先だちて天違わず、天に後れて天の時を奉ず。天すら且つ違わず、而るを況んや人に於いてをや、況んや鬼神に於いてをや。
「夫」は音は扶。「先」「後」はともに去声。大人とは爻辞の利見の大人を解釈したものである。この徳があってその位に当たることで、はじめてこれに当たるに足る。人と天地鬼神とはもともと二つの理ではなく、ただ「我が私」に蔽われるがゆえに形体に梏われて相通ずることができないのである。大人は無私にして道を体とするから、どうして彼此や先後の区別を論ずることがあろうか。「天に先だちて違わず」とは心の所為がひそかに道と一致することをいい、「天に後れて天を奉ず」とは理がこのようであることを知って尊奉して行うことをいう。回紇が郭子儀に「卜者が言うには、この行で一人の大人を見て還るであろうとのことだったが、その占いはまさにこれと合致した」と言った。子儀のような人物は夫子の論じられた境地には及ばないといえども、その至公無私は当時の大人と称するに足るものであった。
亢の言たるや、進むを知りて退くを知らず、存するを知りて亡ぶるを知らず、得るを知りて喪うを知らず。「喪」は去声。ゆえに動けば悔いがある。其れ唯だ聖人か。進退存亡を知りてその正しきを失わざる者は、其れ唯だ聖人か。その理の勢いがこのようであることを知り、これに処するに道をもってすれば、悔いあるに至らない。もとより私心を計って害を避けるのではない。重ねて「其れ唯だ聖人か」と言ったのは、初めは設問のようにして最後に自ら応えたのである。この第六節は第二・第三・第四節の意を重ねて述べている。