East Almanac
日本語

31. 泽山咸 (咸)

第4爻

この爻が動けば に変じる 39. 水山蹇 (蹇)
九四:貞なれば吉にして悔い亡ぶ。憧憧として往来すれば、朋、爾の思いに従わん。

現代解釈

九四は心臓の位置にあり、思惑が定まらず思い煩いが去来する葛藤の局面を映し出しています。伝統的な易学では、私心を離れて公明正大を守れば悔いは消えるものの、私利や不安にとらわれれば感応の輪は狭小にとどまると説かれます。

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プロンプトプレビュー
易経・四柱推命のリーディング依頼(eastalmanac.com より)。
Page: Hexagram 31 咸 — 第4爻.
二層構造で解釈してください。1)理法の根拠:卦爻の変爻や干支五行の力点と注意すべき盲点。2)実践的アドバイス:問いに対する率直な結論、動詞から始まる2〜3の具体的な行動指針と内省の要点。決定論を排し、自省と意思決定の参考にしてください。出典・詳解:
https://eastalmanac.com/ja/yijing/31/4

易の占い

九四は陽爻陰位で上下の交わりに位置し、心が落ち着かず往来する情景が象徴されています。『小象伝』が「憧憧として往来するは、未だ光大ならざるなり」と指摘するように、打算や迷いに囚われると視野が狭まり、真の一致には至りません。要するに、損得勘定や迷いを手放して公明正大な態度を保てば、自然と信頼と調和が集まります。

仕事・キャリア

業務において複数の思惑や利害関係に挟まれ、あれこれ思い悩んで方針が定まりにくくなりやすい時期です。小手先の駆け引きや身内びいきで乗り切ろうとすると、かえって全体からの求心力を損ねることになります。要するに、私情や打算を交えずに筋の通った姿勢を貫くことで、周囲の納得と協力を引き出せます。

恋愛・対人

関係の中で相手の真意を詮索しすぎたり、自分の都合や損得を気にかけたりして、心が落ち着かない状態が示されています。駆け引きや疑心暗鬼は心の距離を広げるばかりであり、率直さに欠ける接し方は関係の自然な流れを妨げます。要するに、あれこれ深読みするのをやめ、素直で裏表のない気持ちで接することが安定への近道です。

金運

情報過多により判断がブレやすく、短期的な利益への執着から頻繁な方針変更を繰り返して消耗しやすい配置です。変卦の蹇が示す険難を避けるためにも、焦燥感から手を広げたり投機に走ったりする衝動を抑える必要があります。要するに、目先の損得に心を惑わされず、中長期の基本方針に忠実であり続けることが肝要です。

参考資料

原文

小象伝

貞吉にして悔い亡ぶとは、未だ害に感ぜざればなり。憧憧として往来するは、未だ光大ならざるなり。

古典注釈

周易本義爻辞

憧は昌・容の反、また音は同である。九四は股の上に居り、脢(せぼね)の下に在り、また三陽の中心に当たって、心の象であり、泽山咸の主である。心の物を感ずるは、まさに正しくして固くあってこそその理を得る。今、九四は陽をもって陰に居り、その正を失って固くあることができない。ゆえに占いに因んで戒めを設け、よく正しくして固くあれば吉にして悔いは亡び、もし憧憧として往来し、正固たること能わず私感に累わされるならば、ただその朋類のみがこれに従い、重ねて遠くに及ぶことはできないとするのである。

周易本義小象伝

感害とは、正しからずして感ずれば害があることを言うのである。

伊川易伝爻辞

感とは人の動きである。ゆえにみな人身について象を取る。拇は下に在りて動きの微なるを取り、腓は先に動くを取り、股はその従うを取る。九四は取るところなく、直ちに感の道を言い、「其の心に咸ず」とは言わない。感ずるとは心だからである。九四は中に在りて上に居り、心の位に当たるゆえに感の主となり、感の道を言う。貞正なれば吉にして悔いは亡び、正をもって感ぜざれば悔いがある。また九四は説体にして陰に居り初六に応ずるゆえに、貞を戒めるのである。感の道は通ぜざる所なきものなるに、私係するところがあれば感通を害し、ここに悔いが生じる。聖人が天下の心を感応させることは、寒暑・雨陽のごとく通ぜざるはなく応ぜざるはなきものであり、これもまた貞なるのみである。貞とは中を虚にして無我なるをいう。憧憧として往来すれば朋は爾の思いに従う。それ貞一なれば感ずるところ通ぜざるはなし。もし往来すること憧憧然としてその私心をもって物に感ずれば、思いの及ぶところは能く感じて動くも、及ばざるところは感ずることができない。これその朋類のみがその思いに従うのである。係るところある私心をもってすでに一隅一事に主となれば、どうして廓然として通ぜざる所なきを得ようか。『繋辞』に「天下何ぞ思い何ぞ慮らん、天下同調にして途を殊にし、一致にして百慮す、天下何ぞ思い何ぞ慮らん」とある。夫子は泽山咸に因んで感通の道を極論されたのである。およそ思慮の私心をもって物に感ずれば、感ずるところは狭い。天下の理は一つである。途は殊なるといえどもその帰するところは同じであり、慮は百なりといえどもその致すところは一である。物は万の殊あり、事は万の変ありといえども、これを統べるに一をもってすれば違背することはできない。ゆえにその意を貞にすれば、天下を窮めて感通せざるはないのである。ゆえに「天下何ぞ思い何ぞ慮らん」と言う。その思慮の私心を用いては、どうして感ぜざる所なきを得ようか。日が往けば月が来たり、月が往けば日が来たり、日月相推して明が生じる。寒が往けば暑が来たり、暑が往けば寒が来たり、寒暑相推して歳が成る。往くとは屈することであり、来るとは信(の)びることである。屈信相感じて利が生じる。これは往来屈信をもって感応の理を明らかにしたものである。屈すれば信びあり、信びれば屈あり、いわゆる感応である。ゆえに日月相推して明が生じ、寒暑相推して歳功が用を成し、これによって成就する。ゆえに「屈信相感じて利生ず」と言う。感動である。感あれば必ず応あり、およそ動あればみな感となり、感ずれば必ず応あり、応ずるところはまた感となり、感ずればまた応あり、ゆえに止まざるのである。尺蠖の屈するは以て信びを求むるなり。竜蛇の蟄するは以て身を存するなり。義を精しくして神に入るは以て用を致すなり。用を利用して身を安んずるは以て徳を崇くするなり。ここを過ぎて以て往くは未だこれ知らざるなり。前には屈信の理を述べた。また物を取ってこれを明らかにする。尺蠖の行くは先に屈してのちに信びる。けだし屈せざれば信びず、信びてのちに屈あり。尺蠖を観れば感応の理を知る。竜蛇の蔵するは、その身を存息してのちによく奮迅する所以である。蟄せざれば奮うことはできない。動息相感ずるはすなわち屈信である。君子が精微の義に心を潜めて神妙に入るは、その用を致す所以である。精微に心を潜めるは積(蓄積)であり、用を致すは施(発揮)である。積と施はすなわち屈信である。用を利用して身を安んじ以て徳を崇くすとは、上文の用を致すを承けて言ったものであり、その施用を利し、その身を安処させることは、その徳業を崇大にする所以である。為すところが理に合えば、事は正しく身は安らかになる。聖人の能事はここに尽きる。ゆえに「ここを過ぎて以て往くは未だこれ知らざるなり」と言う。神を窮め化を知るは徳の盛んなるなり。すでに「ここを過ぎて以て往くは未だこれ知らざるなり」と言い、さらにこの語をもってこれを終えて、至神の妙を窮め極め、化育の道を知るは徳の至盛であり、これに加えるものなしと言っているのである。

伊川易伝小象伝

貞なれば吉にして悔い亡ぶとは、未だ私感に害されないことである。私応に係れば感応を害する。憧憧として往来し、私心をもって相感ずれば、感ずるの道は狭い。ゆえに「未だ光大ならず」と言うのである。

周易注爻辞

上卦の初めに処し、下卦の始めに応じ、体の中に居り、股の上に在って、二体始めて相交感し、もってその志を通じ、心神が始めて感ずる者である。およそ物が始めて感じてこれを正にいたらしめなければ害に至る。ゆえに必ず貞にしてしかるのちに吉となり、吉にしてしかるのちにその悔いを亡ぼすことができるのである。始めは感に在り、未だ感応を極め尽くさず、思慮なきに至ってもってその党を得ることができない。ゆえに「憧憧として往来」し、しかるのちに「朋は其の思いに従う」のである。

周易注小象伝

未だ害に感じていない。ゆえにこれを正しくすることができ、「悔い亡ぶ」を得るのである。

周易正義爻辞

正義に曰く、「貞吉悔亡」とは、九四が「上卦の初めに処し、下卦の始めに応じ、体の中に居り、股の上に在って、二体始めて相交感し、もってその志を通じ、心神始めて感ずる者である。およそ物が始めて感じてこれを正にいたらしめざれば」害がまさに及ばんとする。「ゆえに必ず貞にしてしかるのちに吉となり、吉にしてしかるのちにその悔いを亡ぼすを得るなり」。ゆえに「貞吉にして悔い亡ぶ」というのである。「憧憧往来朋従爾思」とは、「始めは感に在りて未だ感の極みを尽くさず」、ただ思い動いて相応ずるを求めんとするのみで、未だ懐を忘れ照を息めてかの自然に任ずることができない。ゆえに「憧憧として往来」し、しかるのちに朋が爾の思うところに従うのである。

周易正義小象伝

正義に曰く、「未だ害に感ぜず」とは、心神が始めて感じて未だ害に至っていないゆえに、正しくせざるべからず、正しくするがゆえに「悔い亡ぶ」を得るのである。正義に曰く、「未だ光大ならず」とは、感応の極みではなく、無思無欲となることができないゆえに、未だ光大ではないのである。

出典