East Almanac
日本語

38. 火泽睽 (睽)

第6爻

この爻が動けば に変じる 54. 雷泽歸妹 (归妹)
上九。睽きて孤なり。豕の塗を負うを見、鬼を一車に載す。先には之が弧を張り、後には之が弧を脱く。寇に匪ず婚媾なり。往きて雨に遇えば則ち吉なり。

現代解釈

上九は孤立や疑心暗鬼が頂点に達し、本来の味方まで敵に見えてしまう心理的な葛藤を表しています。しかし冷静さを取り戻して警戒を解けば、恐れていた脅威は親愛なる結びつきへと転じ、疑いはすっきりと晴れ渡ります。

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プロンプトプレビュー
易経・四柱推命のリーディング依頼(eastalmanac.com より)。
Page: Hexagram 38 睽 — 第6爻.
二層構造で解釈してください。1)理法の根拠:卦爻の変爻や干支五行の力点と注意すべき盲点。2)実践的アドバイス:問いに対する率直な結論、動詞から始まる2〜3の具体的な行動指針と内省の要点。決定論を排し、自省と意思決定の参考にしてください。出典・詳解:
https://eastalmanac.com/ja/yijing/38/6

易の占い

睽の極みに位置する上九は、過剰な警戒心から幻影に怯え、弓を引き絞るほどの強い猜疑心に苛まれる姿を描いています。しかし古典の伝承では「寇に匪ず婚媾なり」とされ、雨が降るようにわだかまりが解けることで「群疑亡ぶ」という劇的な和解が語られます。之卦の帰妹は焦りや衝動的な行動への戒めを含んでおり、感情に任せて先制攻撃を仕掛けるのではなく、真相を見極める静けさが求められます。先入観による恐怖を手放して落ち着きを保てば、敵だと思い込んでいた相手が実は心強い味方であると気づくはずです。

仕事・キャリア

職場や取引先との関係において、根拠のない噂や過度な警戒心から周囲を敵視してしまう傾向が見られます。防衛的な態度を強めて対立姿勢を取ると不要な摩擦を生むため、古典解釈の教えに従ってまずは弓を下ろし、客観的な事実を確認することが肝要です。相手の真意を冷静に確かめれば、攻撃ではなく協力を求めていたことが明らかになるでしょう。疑いから身構えるのをやめて対話を試みれば、無用なトラブルを防ぎ協力体制を築けます。

恋愛・対人

相手の何気ない行動や言動を深読みし、裏切られているのではないかと疑心を募らせやすい時期です。しかし古典の象意が示す通り、その恐れの多くは自身の不安が生み出した幻に過ぎず、相手は誠実な結びつきを望んでいます。防衛的な冷たい態度を改め、率直に不安を分かち合うことで、雨降って地固まるように信頼を取り戻せます。思い込みによる不安をぶつける前に素直な心で向き合えば、温かな絆がよみがえります。

金運

不確かな情報や市場の過熱した噂に惑わされ、過度な損失不安から性急な判断を下しがちな状況です。古典の知恵は幻影に怯えて軽挙妄動することを戒めており、霧が晴れて実態が明らかになるまで静観することが判断を誤らない鍵となります。一時的な感情に巻き込まれず、冷静に根拠を精査して事実に基づいた選択を維持することが求められます。根拠のない不安に煽られず冷静に状況を見極めれば、無駄な損失をしっかりと避けられます。

参考資料

原文

小象伝

雨に遇うの吉は、群疑亡ぶるなり。

古典注釈

周易本義爻辞

「弧」の音は胡。「説」の音は吐活の反。「媾」の音は古豆の反。

睽孤とは、六三が二陽の制する所となり、己は剛を以て明の極・睽の極の地に処し、また自ら猜狠にして乖離するを謂う。「豕の塗を負うを見る」とはその汚れたるを見るなり。「鬼を一車に載す」とは無を以て有となすなり。「弧を張る」とはこれを射んと欲するなり。「弧を説(と)く」とは疑い稍(やや)解くるなり。「寇に匪ず婚媾なり」とはその寇に非ずして実に親しきを知るなり。「往きて雨に遇えば吉」とは疑い尽く解けて睽合するなり。上九の六三におけるや先には睽きて後には合す。ゆえにその象と占いは是の如し。

伊川易伝爻辞

上は卦の終わりに居り睽の極である。陽剛にして上に居るは剛の極である。離の上に在るは明を用いるの極である。睽極まれば咈戻して合い難く、剛極まれば躁暴にして詳(つまびら)かならず、明極まれば過察にして多疑となる。上九には六三の正応があり、まことには孤にあらざるにその才性が是の如し、自ら睽孤となるのである。人の親党ありといえども多く自ら猜疑し、妄りに乖離を生じ、肉親親党の間に処すといえども常に孤独なるが如し。上と三とは正応たりといえども、睽の極に居りて疑わざる所なし。その三を見るや豕の汚穢にして泥塗を背負うが如く、その甚だ憎むべきを見るなり。すでに甚だしくこれを悪めば、猜疑してその罪悪を成し、鬼を満車に載するを見るが如し。鬼は本より形なきに一車に載するを見るは、無を以て有となす妄の極みを言う。物理は極まれば必ず反る。近きを以てこれを明かせば、人の東に適くが如く東極まれば動けば西なり。高きに登るが如く高き極まれば動けば下なり。すでに極まれば動きて必ず反る。上の睽乖すでに極まり、三の処する所は正理なり。大凡失道極まれば必ず正理に反る。ゆえに上は三において始めは疑うも終には必ず合するなり。先に弧を張るとは始め疑悪してこれを射んと欲するなり。これを疑うは妄なり。妄は安んぞ能く常ならん、ゆえに終には必ず正に復る。三には実に悪なきゆえに後に弧を説きて射ず。睽極まりて反るゆえに三と復た寇讐とならずして婚媾なり。この「寇に匪ず婚媾なり」の語は他卦と同じといえども義は殊なり。陰陽交わりて和暢すれば雨となる。上は三において始めは疑いて睽き、睽極まれば疑わずして合す。陰陽合して益々和すれば雨となる。ゆえに「往きて雨に遇えば吉」と云う。往くとはこれより往くなり。すでに合して益々和すれば吉なるを謂う。

伊川易伝小象伝

雨とは陰陽の和なり。始めは睽くもよく終わりに和す、ゆえに吉なり。よく和する所以のものは群疑ことごとく亡ぶるを以てなり。その始め睽くや疑わざる所なし、ゆえに群疑と云う。睽極まりて合すればことごとく亡ぶるのである。

周易注爻辞

睽の極に処し、睽の道いまだ通ぜず、ゆえに「睽孤」と曰う。己は炎の極に居り、三は沢の盛んに処す、睽の極なり。文明の極を以て至穢の物を観る、睽の甚だしきなり。豕にして塗を負う、穢れこれに過ぐるはなし。至睽まさに合せんとし、至殊まさに通ぜんとし、恢詭譎怪、道まさに一とならんとす。いまだ洽(あまね)きに至らざるにまず殊怪を見、ゆえに「豕の塗を負うを見る」、甚だ穢とすべし。「鬼の車に盈つるを見る」、ああ怪しむべし。「先に弧を張る」とは、将に攻め害せんとす。「後に弧を説く」とは、睽怪通ずるなり。四はその応を剠(そこな)う、ゆえに寇となす。「睽」の志まさに通ぜんとす、「寇に匪ず婚媾なり」、往きて時を失わざれば睽疑亡ぶ。雨に遇うを貴ぶは陰陽を和するなり。陰陽すでに和すれば「群疑亡ぶ」なり。

周易正義爻辞

「上九、睽孤、豕の」から「雨に遇えば吉なり」に至るまで。正義に曰く、「睽孤」とは、睽の極に処し「睽」の道いまだ通ぜざるゆえに「睽孤」と曰う。「豕の塗を負うを見る」とは、火は動きて上り沢は動きて下る、「己は炎の極に居り、三は沢の盛んに処す、睽の極なり」。離は文明となし沢は卑穢なり。文明の極を以て至穢の物を観るは、事の豕の泥塗を負うに同じく、穢れこれより甚だしきはなし。ゆえに「豕の塗を負うを見る」と曰う。「鬼を一車に載す、先に弧を張る、後に弧を説く」とは、鬼魅が車に盈ち怪異の甚だしきなり。至睽まさに合せんとし、至殊まさに通ぜんとし、治に至らざるにまず殊怪を見る。ゆえにまた「鬼を一車に載す」を見る。載鬼に「見」と言わざるは豕の上に「見」の字あればなり。怪を見ること是の若く、来たりて己を害せんことを懼る。ゆえに「先に弧を張る」とは将に攻め害せんとするなり。物極まれば反り、「睽」極まれば通ず。ゆえに「後に弧を説く」とは復た攻めざるなり。「寇に匪ず婚媾なり」とは、「四はその応を剠う」、ゆえに四を寇と謂う。「睽」の志すでに通じ、寇をなす能わず、すなわち二と婚媾をなすを得る。ゆえに「寇に匪ず婚媾なり」と曰う。「往きて雨に遇えば吉」とは、雨とは陰陽交和の道なり。衆異ならびに消え復た疑阻なく、往きて和合を得れば吉これに従う。ゆえに「往きて雨に遇えば吉」と曰う。

注の「睽の極に処し」から「群疑亡ぶるなり」に至るまで。

正義に曰く、「恢詭譎怪、道まさに一とならんとす」とは、『荘子』内篇・斉物論に「物として然らざるはなく、物として可ならざるはなし。故に筳と楹、厲と西施、恢詭譎怪を挙ぐるも、道通じて一となす」とある。郭象の注に云う、「それ筳は横にして楹は縦、厲は醜にして西施は好(うつく)し。いわゆる斉とは豈に必ず形状を斉しくし規矩を同じうせんや。縦横好醜、恢詭譎怪を挙げ、おのおのその然る所を然りとし、おのおのその可とする所を可とすれば、すなわち形は万殊なりといえども性は本より同じきを得る。故に『道通じて一となす』と曰うなり」と。荘子の言う所は以て斉物を明かすゆえに、恢詭譎怪たる至異の物を挙げて道通じて一となし、性を得れば同じきなり。王輔嗣はこの文を用いて「通」を「将」の字に改めしは、物極まれば反り睽極まれば通ずるを明かさんとしたものであり、詩を引きて章を断ずるに似て、必ずしも本義と同じからず。

周易正義小象伝

正義に曰く、「群疑亡ぶるなり」とは、往きて三と合するは雨の和するが如し。さきの豕を見、鬼を見、弧を張るの疑いはならびに消釈す。ゆえに「群疑亡ぶるなり」と曰うのである。

出典