East Almanac
日本語

8. 水地比 (比)

第5爻

この爻が動けば に変じる 2. 坤為地 (坤)
九五:顕比なり。王用いて三駆し、前禽を失う。邑人戒めず、吉なり。

現代解釈

「比」の九五は、卦の中で唯一の陽爻として尊位にあり、来る者を拒まず去る者を追わない公明正大な統率の徳を表します。私心を捨てて広やかな度量で接することで、人々が自ずから信服し、大きな調和が生まれます。

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プロンプトプレビュー
易経・四柱推命のリーディング依頼(eastalmanac.com より)。
Page: Hexagram 8 比 — 第5爻.
二層構造で解釈してください。1)理法の根拠:卦爻の変爻や干支五行の力点と注意すべき盲点。2)実践的アドバイス:問いに対する率直な結論、動詞から始まる2〜3の具体的な行動指針と内省の要点。決定論を排し、自省と意思決定の参考にしてください。出典・詳解:
https://eastalmanac.com/ja/yijing/8/5

易の占い

九五は中正にして尊位を占める「比」の主爻であり、古の王が三方を囲みつつ前方を開けて獲物を追い詰めない「三駆」の礼を体現しています。伝統的な解釈では「顕比」と呼ばれ、無理に人を引き留めたり強制したりせず、去る者は追わず来る者を受け入れる寛大な姿勢が民の信頼を集めると説かれます。力で支配するのではなく、公正さと温かさによって自発的な帰服を促す境地です。相手の自由を尊重する度量の広さこそが、真の求心力を生み出します。

仕事・キャリア

組織やプロジェクトを導く立場において、細かな統制や強制を排し、自主性を重んじる寛大なリーダーシップが大きな成果をもたらします。公正で透明な環境を整えておけば、優秀な仲間が自発的に力を発揮し、強固な結束が自然と生まれます。去る者に執着せず、志を共にする人々の協力を素直に歓迎する姿勢が、チームの士気を高めます。公正なルールと包容力をもって臨めば、周囲は無理強いしなくても自然と力を尽くしてくれます。

恋愛・対人

束縛や執着を手放し、相手の個性と自由を包み込むような大きく温かな愛情が育まれるときです。相手をコントロールしようとせず、ありのままの存在を信頼して受け入れることで、かえって絆は揺るぎないものとなります。開かれた安心感の中で互いに惹かれ合う、成熟した関係性を築くことができます。握りしめるのではなく両手を広げて受け止める姿勢が、最も深い愛と安らぎをもたらします。

金運

透明性の高い公正な取引と、関わる者すべてに恩恵をもたらす寛大な姿勢が、長期的で豊かな実りを生み出します。目先の小さな利益に執着して相手を追い詰めるような交渉を避け、双方が納得できるゆとりある合意を目指すことが信用を高めます。自然な循環に任せて道理に従う姿勢が、良質な資本や顧客とのご縁を維持します。無理な囲い込みをせず誠実かつ寛容に振る舞うことが、息の長い繁栄の礎となります。

参考資料

原文

小象伝

顕比の吉は、位正中なるなり。逆を舎て順を取るは、前禽を失うなり。邑人戒めざるは、上をして中ならしむるなり。

古典注釈

周易本義爻辞

一陽尊位に居り、剛健中正。卦の群陰みな来たりて己に比す。その比を顕らかにして私なし。天子の合囲せず、一面を開く網のごとく、来る者は拒まず、去る者は追わず。ゆえに「王用て三駆し、前禽を失う。邑人戒めず」の象をなす。蓋し私属といえどもまた上の意を諭り、相警備してもって必ず得んことを求めざるなり。およそこれ皆吉の道。占う者かくのごとくなれば吉なり。

周易本義小象伝

舎は音捨。

上の徳によりて偏ならざらしむるなり。

伊川易伝爻辞

五は君位に居り、中に処り正を得て、比道の善を尽くす者である。人君の天下に比する道は、まさにその比道を顕明にすべきのみである。誠意をもって物に待ち、己を恕してもって人に及び、政を発し仁を施して天下にその恵沢を蒙らしむるがごときは、人君の天下に親比する道である。かくのごとくなれば天下に誰か上に親比せざらんや。もし乃ちその小仁を暴わし、道に違いて誉れを干め、もって下の比を求めんと欲せば、その道はまた狭し。それ能く天下の比を得んや。ゆえに聖人は九五をもって比道の正を尽くすとなし、三駆を取りて喩えとなし、「王用て三駆し、前禽を失う。邑人戒めず、吉なり」と言う。先王は四時の畋猟の廃すべからざるをもって、その仁心を推して三駆の礼となす。すなわち礼にいわゆる天子は合囲せざるなり。成湯の祝網はその義である。天子の畋猟は、その三面を囲み、前に一路を開きて去らしむるは、物を尽くすに忍びざる好生の仁である。ただその命を用いざる者、出でずして反りて入る者のみを取る。禽獣の前へ去る者はみな免る。ゆえに「前禽を失う」という。王者のその比道を顕明にすれば天下は自然に来たり比す。来る者はこれを撫し、もとより煦煦然として物に比を求めず。田猟の三駆において禽の去る者は従いて追わず、来る者はこれを取るがごとし。これ王道の大にして、その民の皥皥としてこれをなす者を知らざるゆえんである。「邑人戒めず吉」とは、その至公にして私なく、遠邇親疎の別なきを言う。邑とは居邑であり、易中に言うところの邑はみな同じく王者の都する所、諸侯の国中である。誡とは期約である。物に待つこと一にして居邑に期誡せず。かくのごとくなれば吉なり。聖人の大公無私をもって天下を治むるは、顕比においてこれを見る。ただ人君の天下に比する道のみがかくのごときにあらず、大率人の相比するも然らざるはなし。臣の君に対するをもってこれを言えば、その忠誠を尽くし、その才力を致すは、すなわちその君に比する道を顕らかにするなり。これを用うるや否やは君に在るのみにして、阿諛逢迎してその己に比するを求むべからず。朋友においても然り。身を修め意を誠にしてこれに待ち、己に親しむや否やは人に在るのみにして、巧言令色・曲従苟合してもって人の己に比するを求むべからず。郷党・親戚・衆人において皆然らざるはなし。三駆前禽を失うの義である。

伊川易伝小象伝

顕比の吉なるゆえんは、その居る所の位が正中を得るをもってである。正中の地に処るは、乃ち正中の道による。比は偏らざるをもって善となす。ゆえに正中という。およそ正中と言う者は、その正に処りて中を得るなり。比と随がこれである。中正と言う者は、中と正を得るなり。訟と需がこれである。礼に命を用いざるを取るは、乃ち順に逆を取るなり。命に順いて去る者は皆免る。比は向背をもって言えば、去る者を逆となし、来る者を順となす。ゆえに失う所は前へ去る禽である。来る者はこれを撫し、去る者は追わざるを言う。親近に期誡せず。上の下を使使するや中平にして偏らず、遠近一の如し。

周易注爻辞

比の主となりて応が二にあり、「比を顕らかにする」者である。比してこれを顕らかにせば、親しむ所は狭し。物に私することなく、唯だ賢あるに与すれば、去ると来るとともに失うことなし。それ三駆の礼は、禽が己に逆らい来たり赴けばこれを舎き、己に背きて走ればこれを射る。来るを愛して去るを悪む。ゆえにその施す所は常に「前禽を失う」なり。「顕比」をもって王位に居り、三駆の道を用いる者である。ゆえに「王用て三駆し、前禽を失う」という。その中正を用い、征討に常あり、伐を邑に加えざれば、動けば必ず叛を討ち、邑人は虞ることなし。ゆえに「戒めず」なり。大人の吉を得ずといえども、これ「顕比の吉」なり。これは上の使たることができても、上たる道にはあらず。

周易正義爻辞

「九五顕比」より「邑人不誡吉」に至る。

正義に曰く、五は二に応じ、比道を顕明にするも、あまねく相親しむ能わず、これ比道の狭きなり。「王用て三駆し前禽を失う」とは、田猟の道を借りてもって「顕比」の事を喩えたものである。およそ三駆の礼は、禽の己に向かう者はこれを舎き、己に背く者はこれを射る、これ「前禽」を失うなり。「顕比」の道は、己と相応ずる者はこれに親しみ、己と相応ぜざる者はこれに疎んず。三駆田猟の来たるを愛し去るを悪むに似たり。ゆえに「王用て三駆し、前禽を失う」という。「顕比」の道がこれに似たるを言うなり。「邑人戒めず吉」とは、広くあまねく自己の相親しむ所に親比する能わずといえども、みだりに討伐を加えず、ゆえに己の邑の人は防誡を須いずして吉あるなり。「邑人戒めず」してもって「吉をなす」に至りては、大人の弘闊の道にあらず、大人の道となすべからず、ただ大人の使たるべきのみ。

注の「為比之主」より「非為上之道」に至る。

正義に曰く、「去ると来ると皆失うなし」とは、もし「比」の道が弘闊にして物に偏私せず、唯だ賢を是れ親しむならば、己に背きて去る者も己に向かいて来る者も、皆ことごとく親附して失う所なきなり。去るも失わず、来るも失わずという。三駆の礼とは、先儒みな「三度禽を駆りてこれを射る」という。三度にして止む、今またこれに従い、去るを射る。褚氏諸儒は皆「三面に人を着けて禽を駆る」となす。必ず「三面」と知るは、禽はただ己に背くか、己に向かうか、己に趨くのみ、ゆえに左右および後に駆るあり。「来るを愛して去るを悪む」とは、来れば舎く、これ来るを愛するなり。去れば射る、これ去るを悪むなり。「故にその施すところ常に前禽を失う」とは、独り応ずるところに「比」すれば、比するところは失となるを言う。三駆の施すところ、来るを愛し去るを憎みて、前禽を失うがごとし。「その中正を用い、征討に常あり、伐を邑に加えざれば、動けば必ず叛を討つ」とは、この九五は中に居り正を得る、ゆえに「その中正を用う」という。心すでに中正なればみだりに喜怒せず、ゆえに征伐に常あり。伐つ所の事は己に親しむ邑に加えざるなり。師を興し衆を動かせば必ずその叛逆を討たんと欲す。五はその「顕比」をもって親しき者には伐を加えず、叛く者は必ず征伐せんと欲す。「大人の吉を得ずといえども、これ顕比の吉なり」とは、《象》に「顕比の吉」と言うをもって、その比は狭きなり。もし「大人の吉」ならば「比」の道は弘通す。「上の使たるべくして、上たるの道に非ず」とは、九五は上の位に居るに、もし行うことかくのごとくなれば、身は王たりといえども止だ上に使わるる人たるべくして、王たるの道にあらず。ゆえに「上たるの道に非ず」という。

周易正義小象伝

「顕比之吉」より「上使中也」に至る。

正義に曰く、「顕比の吉は、位正中なればなり」とは、「顕比」が吉を得るゆえんは、居る所の位が正しくして中なるをもって、ゆえに「顕比の吉」という。「逆を舎て順を取るは、前禽を失うなり」とは、禽の逆らい来たりて己に向かう者はこれを舎きて害せず、禽の順いて去り己に背きて走る者は射てこれを取る、これ「前禽を失う」なり。「邑人戒めざるは、上の使中なればなり」とは、「邑人戒めず」の義を釈く。己の邑の人が防誡を須いざるゆえんは、ただ上に在る九五の使がその中正の人を得て、伐を邑に加えざり、動けば必ず叛を討ち、横しまに無罪を加えず、ただ上に在りて中を使うによる。「中」とは九五をいう。この九五は王者の身たるを得ずといえども、王者の使たるに堪え、中位に居るをもって、ゆえに「上の中を使うなり」という。

出典